紫色の石

 

今日は雨だった

最寄り駅のロータリーで傘を広げる 帰るのが遅くなった 体は鉛のように重く怠い

 

しとしとと降る雨の中 ぼんやりと夜道を歩く 画塾から生徒たちが溢れていた 授業が終わった頃か

ウォータープルーフの化粧品は高価だ けちけちして普段の化粧で済ませてしまったことを心底後悔した  落ちていないか人目が少し気になったが まあ傘を差しているし もう夜だ 大丈夫だろう 光を避けて歩く

 

自分の家が見えてくる あの高台にある一見奇妙なアパート それが私の家

ほっとひと安心する

 

 

ふいに 家の数十メートル前に 不審な動きをする人が目に留まった

女性だ  傘を差し 顔が地面に着きそうなほど屈んで何かを探している

ふと 話しかけるか一瞬迷った しかし こういう時に無視できないおせっかい焼きが私だった

 

 

「どうしました」彼女が驚いて振り向く 眼鏡をかけた 少し質素な印象の女性だった

彼女はおろおろとかなり焦っている様子だった 無言で鞄をまさぐる 取り出したものはメモ帳と薬局で貰えるような安物のボールペンだった 傘を肩にかけ メモ帳にペンを走らせる   彼女が 会話が出来ない人間なのだと 私はすぐに察した

 

《大切なものを落としました》走り書きだ

《紫色の石です》

 

石…… この暗い雨の中 石を失くしてしまった 

不思議な人もいるもんだ しかし私は 他人との不思議な出会いというものが大好きだ

「私も一緒に探します」

彼女の顔は一気に明るくなり  ありがとう  と音を出さず言った

 

 

iPhoneのライトを付け辺りを探す この雨だ なかなか見つけるのは難しい けど 絶対に見つけてやるぞ!という意地が芽生え始めていた 私は間違い探しなども 一度手をつけたら全部見つけ出さないと気が済まないタイプだ

「どういう状況で落とされましたか」

 

彼女はジェスチャーをする どうやら 排水路の穴に かかとのヒールがはまってしまい つまづき驚いた拍子に 首元に付けていた石を 草むらの中へ落としてしまったらしい 

ジェスチャーがわかりやすく 内気そうに見えていた彼女のコミュニケーション能力の高さに感服した

 

しばらく草むらの中を探す  彼女は手を止め困ったように立ち尽くし 意を決したように 傘を畳み始めた そこは石がたくさん落ちており 草は雨で濡れ 傘を差しながらの捜索は難航した 家はもうすぐそこだ 暗い路地には私たちしかいなかった  私は彼女が落としたものの正体に 見当が付き始めていた 私も傘を畳み 本腰を入れて探すことにした そうすることが 彼女以前に 自分自身への誠意であると思った

 

そして数十分後それは ふいに見つかった これだ という確信があった

「ありましたーー!!」

その石は 全体が透明な紫色で  筒の中に ハの字が入った 笛のような形状をしていた

明後日の方向を探していた彼女が急いで駆け寄る 私の手のひらの中を見たとき 彼女は化粧の落ちきった顔でにっこりと微笑んだ メガネがずぶ濡れだ 

 

彼女は放置していた鞄の中から ミネラルウォーターを取り出し おもむろにそれへかけた 水が全て無くなるまで 隅々まで丹念に洗う そうして雨の中大して意味もなく ぱっぱと水気を切り 喉を反らしそれを飲み込んだ 心配になる程ゴホゴホと何度も咳き込み あーーとか うーーと 奇声を発する  私は周りの目を気にした

 

「本当にありがとう!!」途端に喋り出し

彼女は何度も頭を下げ はきはきと私にお礼を言った

「私1人じゃきっと見つけられなかった」彼女は満面の笑みで私にそう言った

 

「私は傘を差していたのに どうしてわかったんですか」

iPhoneで足元を照らしたとき」彼女は微笑んだ「雨の日に化粧品ケチって その上スカートを履くなんてダメですよ」服を着ているのに 裸であることが途端に恥ずかしくなった

彼女の横顔をまじまじと見つめる その素顔は完璧な均衡で出来ていた 何百年 あまりにも大きな時間による迫力を感じた

 

私はもじもじと伝えた「あなたに会えて嬉しかった」「きっとこんな出会いはそうそう無い」

「私も」彼女はいつまでもはにかんでいる「本当にありがとう」

 

 

彼女の失くしものは とても失いやすいものだった 私たちは脆い 衝撃が走ると簡単に欠け 簡単に声を失う 仕組まれた機能なのだろうか と考えた 他者を傷つけまいとする機能

 

帰宅後 私はすぐに入浴し 化粧を施し直した 雨は明日にかけ強くなるようだ 私は迷わずウォータープルーフを選んだ

 

白粉を塗りながら 今年の2月 お祝いに貰った誕生石のネックレスのことを思い出した これが終わったら 少し磨いておくことにしよう 粗末に扱うのは 彼女に悪い気がした